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ドア・引戸・折戸などの建具金物、クローゼットなどの収納の金具や家具金物、手摺や物干し金物など「住まいの金物」の製造、販売。

Thanks for the 10th anniversary(前編)

2017年、お陰様でアトムCSタワーはオープン10周年を迎えました。
4月に開催した「春の新作発表会」からしばらくの間、1階ギャラリーショップKANAGUにて、
記念展示を行いました。

この10年、多くの方がCSタワーにご来場いただきました。金物業界のみならず、様々なジャンルの方と交流させて頂き、新たな出会いがありました。
そこでいくつかのキーワードとともに、時間を遡っていきます。

 

●新橋

 

アトムCSタワー所在地の新橋近辺は名所史跡の多い土地です。
ざっと上げてみると、愛宕神社、鉄道発祥、東京タワー、最近では新虎通りも開通しました。
CSタワーの目の前には、忠臣蔵の浅野内匠頭終焉の地、田村家屋敷跡の碑があり、歴史ウォーキングで訪れる方もいらっしゃいます。

 

●芝家具

CSタワーがある辺りは、旧地名を芝・田村町といい、かつては「芝家具」で栄えた場所でした。

「芝家具」とは、この芝・田村町いわゆる芝地区で製造販売する洋家具のことで、優れた技術と古い伝統を誇る注文一品生産の高級品であることを特徴としていました。

洋家具が初めて日本に渡来したのは室町時代で、そのあと江戸時代にも入っていましたが、本格化したのは安政6年(1859年)横浜に外国人居留地が設けられてからでした。
当初はまだ生産は行われず、日本人は修理や流通に携わるだけでした。そんな当時、初代アメリカ公使ハリスの書記官ヒュースケンが芝の大工に椅子を作らせたという記録が残っています。たぶん日本人が初めて洋家具を作った記録だと思われます。

洋家具業が一つの産業として興ってくるのは明治に入ってからで、当時の文明開化の風潮に乗って他の欧米文物と同様、洋家具も近代・自由の象徴として上級階級から庶民へと浸透していきました。椅子・テーブル・西洋飯台(食卓)・書棚の4点が当時の洋家具の主なものだったようです。

このような状況のなかに「芝家具」は興ってきました。業者の多くは西洋古道具商と称した人たちでした。当時は現在と違って、古道具や中古品は皆があこがれる立派な商品でした。まして家具は耐久消費財ですから、業者は西洋人などから購入した商品で初期の需要は十分まかなえたようです。そのうち新品を扱うようになり、その製作に建具職人や指物職人が携わっていました。

「芝家具」の成立には地域的に有利な要因もあったようです。この区域は江戸時代には殆どが大名や旗本の屋敷でした。明治になって多くの武士が去り、私有地すべてに税がかかるようになると、これを分割して借地に出しました。つまり、居職人が住むのに新開地は都合がよかったわけです。
それにこの区域は街道沿いに商店街が栄え、金毘羅宮・烏森稲荷の門前町があり、赤レンガ街には勧工場(一種の名店街)ができ、明治5年には新橋駅も開設しました。近隣は官庁街・ビジネス街・商店街・貴顕の大邸宅等があって、店舗を開くのに有利であったわけです。
さらには、洋風建築が盛んに建てられ始めたことが「芝家具」興隆の追い風になりました。鹿鳴館(明治16年完成)をはじめ、明治20年代には多くの官庁や会社が建てられ、30年代には一般邸宅にも及びました。

明治に入って我が国においても工場制機械工業が始まりました。「横浜家具」が実用量産の道を歩んでいったのに対し、「芝家具」はハンドメイドの注文一品生産による高級洋家具を特徴とし、ようやく洋家具に対する審美的な要求を持ち始めていた東京の需要によく応え、順調に業績を伸ばしていきました。
関東大震災(大正12年)前後が「芝家具」の絶頂期だったようです。
その後、不況・戦時統制を経て、戦後再び復興しましたが、生活様式の変化等々時代の流れにより、残念ながらいまやかつての姿は全く見られなくなりました。

(アトムニューズ153号より)

 

後編は9月に掲載予定です。

 

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