あなたの家の「厠(かわや)」はどこにあるの?

厠は本来、私たち人間にとってなくてはならないものであり、身近なものなのにもかかわらず、昔は玄関から離れた場所に配置されていました。それは当然、臭いや衛生的な問題があったからでしょう。今回は、家の片隅に追いやられていたけれども、人間にとってなくてはならない「厠」のおはなしです。※これは厠が水洗トイレに変わる前のお話です。

中世ヨーロッパでは糞尿がまどから降ってきた!

フランスやイギリスでは18世紀まで、なぜかトイレという概念がありませんでした。そこで町の住民たちは、糞尿を窓から川や道路、空き地に投げ捨てていたのです。そのため、悪臭を緩和するために香水が流行し、また汚物を踏まないようにハイヒールが考案されたともいわれています。

雪隠は?

「雪ちゅう」という和尚が熱心に、霊隠寺の厠をきれいに掃除していたので、そこから和尚の雪と寺の隠をとって『雪隠』と名付けられたとも言われています。
千利休が大成した茶の湯でも、厠を雪隠と呼んでいました。

厠は水洗の始まり

古事記のなかの記述で、川の流れる溝の上に厠を設置したというような表記があります。川の上に家を建てたことから「かわや」と呼ばれた節もあります。また大家から離れた『個家』を「かわや」とも呼んでいました。

平安時代にはすでに携帯トイレがあった

貴族は、箱形でしゃがむスタイルの携帯トイレを御用用具として持ち歩いていたそうです。現在の簡易トイレよりもおしゃれな木製トイレです。

江戸時代には厠の糞尿はお金になった

厠の糞尿は、町から農家へ肥料として売られていましたが、糞尿の中にも料金のランクがありました。値の高いのが幕府や大名屋敷の「きんばん」。続いて街場の公衆便所の「辻肥」。続いて庶民の長屋の「町肥」。最下等は「たれこみ」。「きんばん」と「たれこみ」では、ずいぶんと値段が違いました。

お尻をきれいにする

紙は紀元前に中国で発明されましたが、そのおかげでアジアには早くから紙の文化がありました。平安時代は、「ちゅうぎ」という木のへらを使用しました。江戸時代になると「浅草紙」と呼ばれる古紙が使われるようになり、その後庶民は古紙を揉んで柔らかくして使用していました。

家のどこに厠があるのか

水洗トイレのない時代、もっぱら厠は玄関から離れた人目につかないけれども、肥のくみ出しに便利な、出入りがしやすい、日当りの悪い場所に設置されていました。

清潔好きな日本人は必ず手を洗う

日本人のように、日常生活でトイレから出て必ず手を洗う民族は、世界的にも珍しいそうです。
昭和のはじめには、吊り手水というバケツのような形の手洗いがトイレの外に吊されていました。

出典:アトムニューズ198号 7-8ページ
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